意味不明の下痢との戦い!
🏥私の下痢との戦いは再三述べていますが、もちろん何もしないでいたわけではありませんでした。今日はそんなエピソードを一つ。
私の下痢症状は小学生の頃から始まりました。少し緊張するだけでも爆発してしまうこの特殊体質には本当に悩まされ続けていました。私にとってはそれ以来数十年の戦いだったわけです。
中学受験もした私は小学生の頃から突発的に起こるこの症状には手を焼いていました。どの医者に行っても特に何もないと言われるだけ、体は健康体だったのです。それでも起こるこの症状。医者にとっても理解不能な状態だったと思われます。
中学に入って受験校であるがゆえの勉強での競い合いが始まりました。中学で入った頃は学年でもトップクラスの生徒であった私ですが、学年が上がるにつれて成績は下降線をたどって行きました。必死に勉強をしましたが、この下降線を抑えることはできなかったのです。
まさに緊張の連続だったことがわかります。授業の小テスト、中間・期末試験、成績発表、私のお腹はどんどん悪い方向に向かって行ったのです。なんの前触れもなく激しい腹痛が頻繁に襲ってきました。
高校になると大学受験を控えて症状はますます悪化していきました。挙げ句の果てに私は高校三年生の時全出席日数の三分の一を登校拒否という結果になったのです。成績もとうとう学年の最後尾にまで落ちてしまいました。
京都の日赤の精神科!
🏥高校一年生の頃でしょうか、私の症状を心配した母は私を京都の日赤病院に連れて行きました。なぜ京都だったのかわかりませんが、神戸から京都というのは決して近くありません。母の母つまり私の祖母も一緒でした。おそらくは祖母からのアイディアだったと思います。
京都駅に着いた時、私はトイレに行ったのですが、出てくるとある女性に止められました。どうやら家出人か授業をサボってフラフラしている学生だと思われたようです。市の関連の方だったと思われます。私は母を見つけて事なきを得ましたが、平日の京都駅にはこういう方が見張っているんですね。
ショックを受けた私ですが、そのまま東山の方にある京都の日赤病院に向かいました。検査の結果は相変わらず異常なしと出ました。的確に私の症状を言い当てた医者は未だかってあった事がありません。「またかよ!」いつもの私のセリフです。
🏥担当医は精神的な事が原因だと考え私を精神科の方に送ったのです。これが大変なところだったのです。精神科の病棟は他とは隔離されたように別の建物に入っていました。あらゆる窓には鉄格子がはめられ、異様な雰囲気だったのを覚えています。
「ここは違うだろう!」私は母に言いました。母もこの異様な雰囲気にはショックを受けていたようです。
そこで私の前に現れた医者がくせ者でした。昼にもかかわらず、起きているのか寝ているのかわからないその態度。私と話した後しばらく静寂が訪れたのです。何も喋らず、目をつむって考え事をしているようなその態度。さすがは日赤の医者、じっくりと私の症状について考えてくれているんだ、、と思った瞬間ショッキングな瞬間が訪れました。
医者の頭が急にカクッと前に倒れたのです。この医者は寝ていたのです!「なんじゃこいつ!」 患者を前にして、診察中に寝ていたというわけです。私は母と顔見合わせて吹き出しそうになりました。「これはあかん!」
今更日赤病院を批判する気持ちはありませんが、精神科の先生は患者と同じように何かおかしくなるのかな、、と思った事は確かです。
幾つか言葉を交わした後外で待っているようにと言われたのですが、診察室を出るやいなや母と祖母と私は一直線に出口の方へ向かったのです。何か打ち合わせをしたわけでもなく、私たちは揃って病棟から一目散に逃げたのです。母曰く「こんなとこにいたらどうなるかわからん! かえっておかしくなる!」
解決策は見つからず!
結局のところ、京都への病院詣でも失敗に終わりました。神戸でもいろんな病院に行きましたが、どこに行っても明確な解決策を提示してくれる医者はいませんでした。
ある意味これは難病ではないのかな、、というのが私の考えでした。検査をすれば健康体。ところが、私に突然襲ってくる症状は悪化の一途をたどったのです。
気の弱い人間であったら、自殺をしたのではないかとも思われるほど当時の私は全てにおいてひどい状況でした。解決策は現代医学をもってしても分からなかったのです。