教会は神様!
⭐️私にとって教会は特別な意味を持っています。中学・高校と神戸のイエズス会系の学校に行った私にとって教会は特別な意味を持っています。
私の学校では卒業時には7〜8割の生徒は信者になっています。高学年になってくると、なんとなく肩身がせまい思いがしてくるものでした。私は信者にならなかった数少ない生徒の一人だったのです。
私の学校は男子校だったのですが唯一女性と会えるのが日曜の教会だったのです。日曜に教会に行くと同じようなミッション系の女生徒が多数来ているわけです。それが目当てで信者になったような友人も何人かいたような現状でした。
私の学校には多数の神父様もいました。海外からの神父様も多数いました。私は小学生時代をイギリスで過ごしたので外国人が多くいるこの学校はなんとなく自分に合っていると思っていたのです。
兄がこの学校にイギリスから帰国した際に編入した経緯もあったので、受験はあったのですが当時としてはこの学校に入ることは自然なことでした。
⭐️ところがです、、。
入ってみると、私にとっては苦痛以外の何物でもない学生生活となってしまいました。無数の校則が存在し、何一つ自分の好きなことができない環境だったのです。
あらゆる交通機関は座ってはいけないという具合です。ある生徒は東京までの新幹線でも立っていたとか。その他、映画館はダメ、喫茶店はダメ、エレキギターはダメ、女生徒と一緒に歩くことは汚らわしい、、などなど。
どういうわけか私は自分なりの神様という概念があったので、神父様の説教も全く頭に入りませんでした。神父様に説得されて信者になっていく友人たちを不思議な感情で眺めていたものです。
私は無神論者ではありませんが、自分なりの神様という存在があったのです。それはキリスト教や仏教など全ての宗教を超越したものでした。結局のところ、私はあの学校では変人としか見られていなかったわけです。神様を信じないで、しょっちゅう授業中にトイレに行くやつ、、。というそんなレベルでしょうか。誰も私のことを快く思っていたものはなかったと思います。
私は高校3年の時には実に出席日数の3分の1を休んだのです。それほど私の下痢は深刻でした。
教会のトイレは私の救いの神!
⭐️そんな私が唯一信心深かったのが通学の途中にある教会でした。日曜のミサには一度も行ったことのない私が平日の朝には毎日のように訪れていたのです。
毎日決まって通学の途中で訪れる激しい腹痛。私のお腹はどうしようもないレベルに達していたのです。毎朝、学校と考えるだけで私のお腹は爆発していたのです。
私の学校は家から歩いて約35分。私の下痢は決まっていつもの通学路のある地点を通過すると爆発の兆しが見えてきました。決まってその交差点に近づくとあれが始まるのです。あの苦しみはなったものにしか分からないとてつもない苦痛でした。
そんな中、唯一の救いがこの教会のトイレだったのです。もう我慢できなくなるその時この教会が目の前にあるのです。これこそ神です。何度この教会のトイレに駆け込んだことか、この教会がなければ私は間違いなく毎朝うんこまみれになっていたことでしょう。
教会のトイレは教会の祭壇のちょうど外側に位置していました。キリスト教にそれほど熱心ではなかった自分ですが、用を足している時は毎回「神様ありがとうございます!」と心の中で祈っていました。 便座に座りながら「アーメン!」
⭐️その意味では教会のトイレは私の救世主かもしれません。神様!あの時は本当にありがとうございました。