名投手金田正一が亡くなった|名球会・豪速球・400勝・功績は偉大

ある名投手の死:金田正一の場合

どんなスポーツでも名選手は人の記憶に残る。なじんだスポーツなら、誰でも一人や二人の選手を覚えている。よほどのファンなら贔屓の(ひいき)の選手は死後でも忘れないものだ。

野球の世界で一時代を築いた名選手が今日10月6日亡くなった。金田正一、通算400勝という稀代の名投手だ。稀代のというのは彼がきら星の様な記録のほか、稀に見る反骨の野球選手だったからだ。あえて非力なチームから職業野球(彼のデビュー頃にプロ野球はそう呼ばれていた)に入った彼は、卓越した投球術を駆使して時のナンバーワン・チームに挑戦、多いの大向こうの喝采を浴びたのである。

金田正一。彼の野球は享栄商業で根づいた。中退して国鉄入り、やがて三振奪取王として名を馳せるまでの日々はドラマそのままだ。金田を記憶する人はみな、華々しくデビューした巨人の長島茂雄との壮絶な争いを語る。初対決に遡る某オープン戦で目覚ましい活躍を見せた長島は、迂闊にも初戦で金田を打ち込んで見せる意味の軽口を叩いたのだ。それを漏れ聞いた金田は憤然と拳を握ったという。

1958年4月5日の開幕戦(巨人、後楽園)での出来事は誰でも鮮烈に覚えている。この試合で、金田は長島を4打席4三振と完膚無きまでに抑え込んだ。叩いた軽口をひと言残らず呑み込まされた長島は、潔(いさぎよ)く兜を脱いでこう言った:

「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」

長島の軽口がなお尾を引いたのか、金田は次の対戦でも最初の打席で長島を三球できりきり舞いさせ、スーパールーキー長嶋をデビューから都合5打席連続で三振に仕留めたのだ。後日談だが、この二人の対決はいい勝負に終わっている。出会い時代こそ金田のドロップに手を焼いた長島だが、1964年までの7年間で金田から打率.313、18本塁打を記録、金田から最も多くの本塁打を打って帳尻を合わせている。

金田正一を語るとき、長島との対決は一面の素描に過ぎない。彼が日本の野球史に名を残す理由は未曾有の三振奪取数だ。1951年、22勝を挙げて以後14年連続20勝を記録、タイトルではないが自身初の最多奪三振を達成する。この記録は1952年、1953年と続き、1955年に4度目さらに1956年には5度目の最多奪三振を記録して昭和生まれ初の沢村栄治賞を受賞している。

稀代の名投手金田正一は6日午前4時半すぎ、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で亡くなった。享年86歳。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA